昭和52年12月15日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」

 信心すれば、誰でもおかげが受けられる。御道の信心はどういう信心かと言うと、先日からも、皆さんに聞いて頂いたように、和賀心を基軸にする。いわゆる天地書附に基づいた信心。そういう信心をすれば、誰でもお徳が受けられるという事なんです。おかげは和賀心にありと仰せられます。だからその和賀心が育っておらず、受けるおかげは、それはおかげであってお徳にはならない。御道でいう信心はどこまでも和賀心を追及し、和賀心を求めて、和賀心が段々育っていく。
 そこんところを信心をすれば一年一年、有難うなって来ると仰せられるところである。その和賀心と言うのが、自分の心のなかにどれほど育っていっておるか。どういう形でそれが現されておるかと言う所を、私はこの信心すれば、誰でもおかげを受けられると言う事を、このくらい的確に分からせて頂くと言う事はないと思うです。沢山な人が信心しよるとに、お徳を受けるという人は滅多にない。だからその大概の人は、どう言う事かと言うと、毎日お参りはしよります。
 お取次ぎを頂いておかげを頂きよりますと言う信心では、御道の信心にもとると言う事。御道の信心はどこまでも、天地書附に基づいた、しかもおかげは和賀心にありと仰るところのおかげ。そこでほんなら和賀心にならせて頂くことのための、言うなら手立てが、この御教えのすべてと言うても良いわけであって、それを頂いた教えを本気で家業の上に現していくという生き方。
 これはどうでも日々がそこに焦点を置いての、本当に天地書附を基軸にしての、今日一日であったかどうかと言う事を、本気で確かめなければならないと言う事を感じます。朝の御祈念をさせて頂く時に、色んな願いが一杯ございます。御礼を申し上げることもお詫びをしなければならないことも、全てぎりぎり最後の所に、私は今日もどうぞ神様あなたのお心に叶う一日でありますように。和賀心を基軸天地書附を基軸にした生き方が出来ますようにという願いを、心からなさなきゃいけんと思うです。
 いろんな問題があります。さぁこの問題を天地書附を基軸にして、基にしてこの問題と取り組ませて頂こう。もうその問題の時には、いわゆる天地書附もなからなければ、和賀心もないと言う様な事では、おかげになりません。私は御道の信心は有り難うして、楽しゅうして、しかも愉快にという事を申しておりますが、本当に有り難うして勿体のうしてと言うお届けを聞きますけれども、あの本当に親先生が言われるように、信心ちゃ愉快なもんですというお届けを、私昨日初めて聞きました。
 昨日秋山さんのお届けの中に、もう親先生もう久し振りに腹を立てましたというお届けがあったんですね。夫婦の仲にちょっとした事が、それこそお父さんがそれこそ、投売りでんしようかち言うぐらいに、お父さんも腹が立った。それがまたこっちも腹が立った。そしてその次の瞬間には、はぁ本当に黙って治めろと仰るが、この事だけはと思っておった、そのこの事だけは言うとかんなん。そげなことはないと。本当に黙って治められなかったことをすぐ神様にお詫びをした。
 それからまぁ色々面白い話が、そこにありますけれどもです。お食事の段になった時に、もう本当にどげん腹かいとったっちゃ、笑わにゃおられん様な事が起こった。自分も笑うなら、主人も笑うとる。そん時にです信心ちゃなんと愉快なものだろうかと思うたと言うお届けでした。夫婦喧嘩が例えばね大したことじゃないでしょうけれども、あなたばかりが、お前ばかりがと言った様な事の中からです。はぁこりゃ本当に言わんで治めねばならんところを言うてしもうた。ともう詫びる次には願っていくです。
 どうぞ良い雰囲気が生まれますようにと言う事。もうそこに本当にあのそれこそ、ふきだすというぐらいの事じゃなかばってん、もう笑いが止まらんと言う様な事が、そこに起きておる。やはりもう気がついた、だから如何にその例えば、はぁこりゃ和賀心を取り外しちゃならんと言う様な事が分りますよね。それをぷりぷりお互いが腹かいとるとじゃなくて、そのぷりぷり腹の立つ心を神様へも持って行って、そしてお詫びをさせて頂いておる。そして良い雰囲気が生まれますようにと言うて願っておる。
 そこにはそれこそ笑いが止まらんようなその可笑しなことがそこに起こって。腹の立っとるとがどこにか飛んでいってしまう。そこにね何と言うでしょうか、本当に信心ちゃ愉快なと言うか。もうどうしてでも願わにゃ出来んのと言うて、昨日秋山さんの話を聞きながら、まぁお話したことでした。神様がこんなことの中に、こんな働きを見せて下さる。もうそれが本当に信心ちゃなるほど愉快だ。と言う様にいうならば和賀心を基軸にして、本当に信心とは自分の心のなかに、喜びを失うちゃならん。
 その久し振りに腹立てましたのところが良かじゃないですか。はっはは。私は信心はねそのようにして、育てていくのだと思うです。昨日午後もう四時過ぎだったでしょうか。福岡からあれは何とかさんと言いよった。あの幸子さんと言う、女子青年の以前に熱心に参って来よりました人が、お参りをしてまいりました。えぇと何とか幸子さんち言いよったかの。あぁ山浦さんち言いよったね。山浦幸子さんち言いよった。それが実は今日は、母のその帰幽日たち日です。
 お母さんと言う方が大変お酒の好きな方で、まぁお酒を沢山飲まれる。そしてもう飲まれたたんべんに、酔狂まわされる。それでもう家中の者がそのまぁ、総好かんのお母さんだったと。亡くなる前日か前々日に、あの何か身体の調子が悪くて、お酒を止めちゃった。ところが今日はいっちょ差し向かいで、ゆっくり幸子さん飲もうのち言うちから、そのお母さんが言いなさった。ところがそのお母さんの癖を知っとるけんで、それに応えることが出来なかった。
 いいえ私は飲まんと言うて。だから幸子さんも、やっぱ少しは頂くわけでしょう。お母さんの相手が出来るくらいですから。そしてその翌々日か亡くなっておられる。それで亡くなられてからこっちも、ずうっとほんにあん時にいう事を聞いて、お母さんの相手をしときゃ良かった。それが心残りで仕様がない。昨日もその事を本当にお詫びをするつもりで、一本お酒を求めて、そして今日合楽の親先生にお取次ぎをお願いして、御霊様にお神酒のお供えをして頂こうとと言うて参ってきた。
 それでそりゃぁあんたかえって、親孝行しとったばい。あんたがもしお母さんとなら、親子でほんならいっちょ飲もうかち言うて、飲うどって亡くなられたならば、本当にあん時の酒が障ったっじゃなかじゃろうかと言うて何時まっでん悔いを残さんならん。けれどそん時酒を頂かなかったと言う事が、私は、かえっておかげじゃなかじゃろうかと私は思うですね。そしてほんなら今日あんたがその、お母さんの御霊様に、好きなお酒をお供えして頂こうと言うて、お参りをしてくると言う事。
 もうそれが親の喜びでなくて何であろうか。今日先生実は電車で参りますときに、電車の中でちょっとあの眠りました。そしたら親先生が白い菊ときない菊を持って、その永井ですね花屋から。私が買うて来よるのはこの永井のそれをこげん長かつじゃいかんと言うて、その長う短こうこう切られた。そして私が、入れてやると言うて目が覚めたち言う。もうそれを私が聞いてから、本当にあの感動しましたですね。
 娘の言うならば孝心と言うか、それがあの親にすまんとか、親に喜んで貰いたいの一念と言った様なものが、もうあの受けておられることが、はっきり感じられますですね。言うなら親先生にお取次ぎを頂いて、親先生にお神酒のお取次ぎをして頂こうと。そしてお母さんにもお詫びの印、又はあの好きだったお酒をお供えして、喜んでもらいたいという、もうその止むにやまれん一念がです、神様に通じておる事が分かります。しかも私の取次ぎによってその思い、心と言うものがいき上げられた。
 今までは本当に相すまん事じゃった、すまんことじゃったあん時に。本当にお母さんと最後の、言うならば、差し向かいで飲んどきゃ良かったと言う心の呵責のようなものがです。かえって親孝行じゃったばいと頂いた時に、はぁおかげ頂いたと。もう心をいけ上げて下さったというのは、そう言う事じゃないだろうかと思う。そして私は思いました。もう子供が親孝行しゅうごとしてたまらんと言う、その心こそが、和賀心だと言う事でございます。もう神様にはすぐ通じとるでしょうが
 。和賀心だからです。だから私はここで皆さんに申しますように、例えそれがどういうほんなら、まぁ胴欲非道な親であってもです。親と名がつきゃやっぱり親なんだ。その親に仕えるとか親の喜びを。親不孝したいと言う者は居りません。親孝行はしたいと思うておる。けれども親孝行がもうしとうてたまらんと言うような人はごく少ない。それでまぁ言うならば、死んだ後にあぁもしてやっとけば良かった。こうもしてやっとけば良かったと言った様な事の人が殆んどである。
 親不孝しようと言う者は居らん。けれども親孝行をしようごとしてたまらん。止むにやまれん思いで親孝行するという人は少ない。金光様のご信心で言うならば、天地に繋がる通うと言う事は、この親孝行の心が根本だと。いいや合楽理念の根本は、親孝行にあるとさえ私は言ってるくらい。その親孝行がですしゅうごつしてたまらんと言う、その心が和賀心。そういう心を育てていくと言う事なんです。
 腹を立てたその後にも、今までかって味合うたことのない、有難い勿体ないの心を。愉快なところまでも高めて行く事が出来る、そういう信心が和賀心を基軸にした生き方だという事なんです。なるほどこう言う生き方を身に付けていけば、これは誰しもおかげが受けられる、いや誰しもお徳が受けられると言う事になるなと言う事になるのじゃないでしょうか。信心すれば誰でもお徳が受けられると仰るが。そのお徳というのは、神様のご信用だと、久留米の初代は言っておられる。神様のご信用が増してくると言う事は、何時も和賀心を基軸にしての生き方。失敗もある夫婦喧嘩する様な事もあるけれども。その向こうには願う縋るといういわば信心。そこには神様がそういう夫婦喧嘩は、犬も食わんと例えば、言うてあるけれどもです。犬が食わんどころじゃない、神様がそれをすぐ食うて下さっておる。すぐ聞いておって下さる。そして次の瞬間には。それこそ愉快なところまでも、信心が高められておる。そういう生き方をです。私共が信心の一つの心情として、そういう信心をするならばです。誰しもお徳が受けられると言う事になるのじゃないでしょうか。だからただ普通の信心じゃない。いわゆる御道の信心でなからにゃいけん。金光教の信心でなからにゃいけん。ほんなら金光教の信心とは、結局天地書附を基軸にした生き方を身に付けながら、進めていく信心をいわゆる教祖は、ここでは仰っておるんだという風に思うのです。
それでなるほど誰しも、お徳が受けられるというのに、そんなに熱心に信心しござるばってん、お徳らしいお徳も受けちゃないと思うておったのですけれども、なるほどそれでは、お徳が受けられん。だから御道の信心に悖る(もとる)と言う事を、分からせて貰うて。結局私共が日々頂いておるのは、和賀心にもならずに頂いておるおかげですから、まぁ、そらひょっとすると、神様に対するところの借金のようなものであって。当然のこととして頂けるおかげ。それは和賀心を追求しながら、求めながら現れてくるところのおかげをもって、ほんならその裏づけのあるおかげ。いうならば徳がそのようにして。一分一厘ずつでも、身に付いていっておると言う事になる。それがたまりたまって、ほんなら御神徳ともなってくるような信心を、金光様のご信心だと分からせて頂いたら、なるほどお徳を受ける人受けない人。教祖は嘘は仰ってないと言う事が、いよいよはっきり分かってまいります。お互い折角です信心して、お徳が誰しも受けられるという、そういう信心を選ばしてもらい。そういう信心をいよいよ、極めて行きたいと思いますね。
   どうぞ。